虹がでたなら

説明がしづらい人のブログ。

私小説を書く人たち

新製品発売日までのカウントダウンが、いよいよ小刻みになり、私を急かしてくる。
年末、イレギュラー対応も多くて、部屋中の会話を聞いてしまい気が散ってしまう私には耳栓の欠かせない季節。
 
今日は、年内外注印刷物関連の入稿を全部やっつけたので早めに帰宅。
Aちゃんの恋人H氏の書く私小説を読んだ。 
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読み終わって、あまりの共感具合に、久々に苦笑が止まらなかった。
H氏が同じ年齢だということは前から知っていたけど、誕生日が3日(つまり72時間程)しか離れてないことと、離婚が結婚10年後だったこと、言い訳の種類が似ていることが大きな要因だったと思う。
 
前半を読みながら、Nと付き合っていた頃、「赤裸々に書き過ぎるのは止めてくれ!」と怒られたことを思い出し、後半を読みながら、Kと付き合っていた頃、彼の元妻の小説やエッセイをあれこれ読んだことを思い出したりしたよ。
 
私たちは、所謂“普通の幸せ”と言うものに近付けることは出来ないけど、誰かが決めた“普通の幸せ”とやらに縁のない人生にだって、その存在価値は十分にある。
 
私たちが選べる選択肢は、いつだって1つか2つか、そんなもんで、私たちはそれらを掴んで死に物狂いで遂行するだけなんだよなぁ。
 
しかし、好むと好まざるにかかわらず、今、ふたりはそれぞれの存在が不可欠な世界で軌道を描いているのが分かるけど、それが良いことなのか、良くないことなのかは、常に流動的で、死ぬまで分からないんだけと思う。
死んだことないので分からないけど。
 
いや、しかし、ずっとずっと近しい人に否定されて生きていくと、パワーダウンして来ちゃうよね。
 
だけど、色々なるようにしかならないよなー。
今、目の前に道がいくつもあるように見えるけど、本当はひとつしかないってこと、何となく解ってるんだよ。
 
 
あー、本当は今夜、弟がもらって来た弟の講義を聴いた学生たちのレポートを真面目に読もうと思っていたのに、また25時を回ってしまった。
週末かなー。